「ええ、そっすねー」と、さらりとした軽い口調が印象的な津野裕賢。一方、いつも慎重に言葉を選びながら話をする馬原和朋。まるで正反対の2人は、入社から19年目に入った同期です。長く一緒に働いていればいろいろあるものですが、それでもこの2人の関係が長く続くのには、とある理由があります。
高校を卒業し、宮崎から一緒に上京した仲間――。
会社の同期であると同時に‶同郷の友〟でもあるのです。
私たち日都産業は、東京の杉並区に本社を構えています。しかし、創設者の出身地が宮崎県という経緯もあり、伝統的に宮崎から多くの新卒高校生を迎え入れてきたのです。
すぐに会社を辞める若者が当たり前の時代において、なぜ彼らは19年も、しかも遠く離れた東京という地で頑張ってこれたのか――。
ベテランの職人として、同郷の仲間として、日都産業のモノづくりを支えてきた‶宮崎ベテランコンビ〟のお話です。
東京に出たい――。意外と普通な志望動機
「日都産業に入った動機ですか?」
馬原はしばらく考えた後、ちょっとはにかみながら、そして当時を思い出すように続けた。
「・・・・・東京に行きたかったんです。一人暮らしもしてみたかったですし」
彼の話からは、遊具メーカーの「ゆ」の字どころか、日都産業の「に」の字も出てこない。東京や一人暮らしへの憧れが、一番の志望動機だと言う。一方の津野は、考える間もなく即答しました。
「ええ、そっすねー。僕も東京に行きたかったです」
しかし、すぐに思い出したように付け加えました。
「でも、遊具メーカーには興味がありました。子どもの頃に遊んでいたすべり台とかぶらんことか、自分の手で遊具が作れるなんて、ちょっと面白そうだなと」
もしかすると、高校生が会社を選ぶ理由は、「東京」「一人暮らし」「何となく面白そう」などで十分なのかもしれません。
(なかなかの迫力の工場内部)
ちなみに、津野と馬原は共に宮崎出身とはいえ、同じ高校ではありません。別々の高校に通っており、それぞれに日都産業の求人を知って応募し、入社してきたわけです。つまり、東京で出会った初めての同い年の友人、ということになります。
もし、同じ高校の友達同士だったら慣れ合いがあったかもしれませんが、「一緒に東京に出てきた、同郷の仲間」というある種の絆が、19年ものあいだ、彼らを支えてきた原動力のような気がしないでもありません。加えて、社内には彼らのような‶宮崎の先輩〟が多数いたことも、心の支えになったに違いありません。
若者よ、3年を目指せ
地方から上京してきた若者にとって、とりわけ不安なのは「将来」でしょう。「仕事の将来」「生活の将来」、そして「自分の将来」――。将来が見えないと、不安は増すばかりです。
そんな若者たちに、会社として最初にかける言葉があります。
「まずは、3年で一人前を目指しましょう」
3年という期間にはいろんな理由があります。1つは、新卒で入った会社を辞める人の多くが「3年以内」というデータ。つまり、「3年頑張れば先が見えるぞ!」と、若者を励ましているわけです。
もう1つの理由は、私たち日都産業で一通りの仕事を覚えるのにかかる実際の年月が「およそ3年」という事実です。一人前とは次のようなイメージです。
「自分で図面を見て、自分で仕事ができる」
この段階で、工場内にある様々な機械をマスターしています。ただ、上司から降りてきた‶仕事をこなす〟だけで、自分で考えて新たな提案をするといった応用はまだです。しかし、最初から最後まで「自分でやりきること」は、自信を持たせるうえで重要なポイントになります。
まずは、3年で若者にしっかり将来を見せる――。
これが私たちの育成方針です。
子どもの安全を支える――「検査課」のお仕事
私たち日都産業の仕事は「遊具をつくる」こと。簡単に説明すると、鉄などの「材料」を切り出し、それを「溶接」したり「塗装」したり「組立」を行い、公園に「設置」することです。その後も、遊具の安全を維持するための「メンテナンス」といった仕事があります。
津野の所属は「製造部 検査課」。溶接を終えたパイプを目で見たり、手で触ったりしながら、「鉄の突起はないか?」といった確認を行います。溶接する際に鉄が飛び散って付着することがあり、遊んでいる最中に子どもが触れたら危険だからです。
「バリで子どもがケガをしたら、せっかくの楽しい時間が台無しじゃないですか。だからいつも真剣ですし、時間をかけて細かいところまで、とにかく丁寧にやることを心がけています」
(こんなにいっぱいある検査工具)
ちなみに、鉄の突起のことを専門用語で「バリ」や「スパッタ」と言うのですが、仕事を語る際の津野は、「ええ、そっすねー」を時おり挟みながらも、どこか頼もしく見えます。なお、検査したパイプには塗装を施すのですが、「塗装はきちんとできているか?」と再度チェックするのも、検査課の仕事です。
長年の経験がものを言う――「製造1課」のお仕事
馬原の所属は「製造部 製造1課」。塗装する前のパイプに穴を空けたり、小さなパーツとパーツを組み立て巨大なパーツにしたり、見た目としてより‶遊具に近い製品〟に仕上げるのが主な仕事です。
(鮮やかなぶらんこの梁)
また、専用の機械を使ってポリエチレンボードを加工するのも製造1課の仕事。今はIT化が進んでおり、PCにデータを打ち込めば、自動で作業は完了します。とはいえ、機械を操作するのは人間。やはり長年の勘は欠かせません。とりわけ鉄のパイプを曲げる仕事などは、より経験がものを言うそうです。
「・・・嫌な仕事ですか? やっぱり『楽じゃない仕事』は嫌ですよ」
しばらく黙る馬原だが、「でもね・・・」と思いついたように話を続ける。
「結局は、自分次第なんじゃないですか? 毎日の仕事を『楽にする』のも、自分が与えられた仕事を『楽しいもの』にするのも」
そう語る馬原と、同調するように頷く津野。
仕事を通して、自分を育てる――。とでも言いたげな2人。
どこか頼もしく、けれども自然な感じの「宮崎ベテランコンビ」の姿こそ、海外がこぞって評価する‶日本モノづくりの原点〟を見たような気がします。
ところで、3年で一人前を目指した後は、どんな将来が待っているのか。
「あるとき、仕事に目覚めるときがくるんです。いつかは分からないし、人によってまちまちなんですけど、急にできるようになるんです。『図面を見て、自分で考えて、自分で工夫する』みたいな状態ですね。不思議と、初めての仕事も自然とできちゃうんです。こうなると楽しいですよ」
「年齢に関係なくポジションを任せる」というのが、私たち日都産業の考えです。人にもよりますが、早ければ5年くらいで「班長」という立場になり、リーダーとして数名を率いることになります。その後は、いくつかの班をまとめる「課長」となりますが、これはもう少し先の話です。
会社を辞めない理由、そして将来の野望
「もちろん、会社を辞めたいと思ったことは何度かあります。でも、それってウチの会社に限らず、どこでも誰でも一緒ですよね。宮崎から上京したからとか、たぶんそれも関係ないですよ」
宮崎ベテランコンビは、口を揃えて言います。ところが、宮崎に縁のある日都産業ならではの‶理由〟がまた、彼らを会社に、そして東京に惹きつけているようです。
「やっぱり人ですね。ウチの会社は人がいい。温かいんです。たぶん、若い頃に宮崎から出てきて、悩んだりしながら今があるわけで、僕らと似たような境遇にある人が多いからかもしれませんね」
もちろん、この先も日都産業で働き続けるという彼らの野望は何なのだろう。
「そっすねー、世界進出ですね。ウチの製品なら、世界でも勝負できますよ」と、津野。
「・・・『SASUKE』みたいな、20~30代の若い人が遊べる遊具とかがあるといいですね」と、馬原。
(左:津野裕賢、右:馬原和朋の宮崎ベテランコンビ)
共通するのは、自分がつくる製品に対する圧倒的な自信と誇り。
「東京に行きたいから」と語っていた19年前の姿は、もうありません。
大人になっても夢がある。
これも、ステキなことではないでしょうか。
高校を出たての若者が、立派な職人に成長するまでの過程を見守る――。
私たち日都産業にとっても嬉しいことです。
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