先日、ちょっと不思議な公園に出会いました。遊具の類が一切なく、本当に何にもない。人がいなかったせいもあって、公園というより「空き地」と呼んだ方がいいような雰囲気。ただ、看板によれば、確かに公園と書かれています。
公園にあるものと言えば、敷地のなかほどにある「土管」くらい。こんもり盛られた土のなかに、どういうわけか土管が1つ、静かに埋められています。土管のなかを潜って遊びましょう。そんなメッセージでしょうか。
(土管のみの「何もない公園」)
どこか寂しく切なく、しかし不思議と懐かしい感覚がこみあげ、しばらくその公園を眺めていたのですが、ふと、なぜこの公園に惹かれているのか、その正体に気づきました。
「そうか、ドラえもんの空き地に似ているのか」
そう、誰もがよく知る、あの「空き地」です。のび太、ジャイアン、スネ夫というお馴染みの3人が学校帰りに集まる、あの空き地。
ぶらんこもない。シーソーもない。ジャングルジムもない。すべり台もない――。そもそも公園でないため、遊具などあるはずもありません。遊び盛りの小学生であるのび太たちは、そこでケンカをしたり、野球をしたり、仲直りをしたり、悩み事を相談したり。困りごとがあると、のび太はよく土管のなかに隠れていましたっけ。
いつも、物語は土管から始まりました。
じつは舞台装置だった「土管」
あの空き地は、子どもたちの「待ち合わせ場所」でした。そこに行けば必ず誰かがいて、そのまま空き地で遊ぶこともあれば、誰かのお家を訪れることもあり、面白いことを企んだ末にみんなで出かけることも。
面白いのは、学校の先生や親といった大人たちは、ほとんど空き地に姿を見せないこと。常に子どもたちで集まり、自発的にみんなで考え、遊びをひねり出し、みんなが各自の行動を取ります。マンガの世界ではありますが、大人の存在を極力排除することで、「子どもらしい発想や行動の大切さ」を訴えているのだと思います。
「子どもだけの世界」――。
土管しかない空き地は、それをシンボリックに表現するための重要な‶舞台装置〟だったような気がします。何もないからこそ、子どもだけという連帯感や世界観がスッと浮かび上がり、それがまた、子どもたちを空き地に呼び寄せたのでしょう。
冒険心をくすぐる遊具は、確かに楽しいものです。
しかし、ふと、こんなことも考えました。
土管のような「何もしない遊具」がポツンとあっても、意外と斬新で刺激的なのかもと。
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